第66話 デジログ的考察により
初めて携帯電話を持ったのは、かれこれ30年近く前になる。
時は移り技術はどんどん進歩し、今や電話やメール等の単純な通信手段に留まらず、カメラや音楽プレーヤーとしても、その専門機器の性能を凌駕する勢いで、ある時は財布や本、雑誌にも代わり、また様々な情報の受信、送信が可能な、現代人にとって必須アイテムとしての進化が止まらない。
私は現在、いわゆる「ガラ携」と「タブレット端末」の2台で運用しており、これは現時点で業務上もっとも適しているためであるが、根本的には携帯電話(端末)が好きでは無い。
その大きな理由の一つに安全性の疑問がある。(持論です)
初めて携帯(電話)を持って早々、ジャケットの内ポケットに入れて携行していた際、着信音が鳴る直前に心臓が「ドキッ!」とすることに気が付いた。
すなわち、耳で着信音を確認する前に、身体(心臓)がその着信を感知するのである。
当時、内ポケットに入れて携行している友人に聞いても、誰も同様の事象を経験したことが無いというが、少なくとも私の身体は明らかに反応している。私は特に心臓に持病があるわけでもなく、かえって「毛が生えている」方であるが、その非常に不快な反応に気が付いて以来、極力、身体からは離して持ち歩くようにしている。
恐らく昨今の機種は改善されているのだろうと想像するが(試してはいないのでわからない)、余程身体に良くない電波を発していたのだろうと考えており、未だに、そんなモノを直接頭に(耳に)当てて長時間電話をする等はもってのほかである。(イヤホン無しの通話は基本3分以内)
最先端の技術が結集されているであろう航空機においても、未だに「携帯電話の電源をOFFにするか、電波を発信しない設定」にすることを呼び掛けているのだから・・・。(こちらの安全対策は少し観点が異なるが)
様々なモノが進化し便利になることは素晴らしいことで、それこそが人類の発展の証である。
当然、それを否定するものでは無いが、その発展の途上にある時、未知のリスクもあることは多くの歴史が証明していることで、私はその見えないリスクを感知するのは「自身に備わった感」であるように思う。
「携帯電話」同様に身近なモノで格段に進化しているものに自動車がある。
私が運転免許を取得し中古のカローラを購入したのが昭和55年のこと。
(当時の多くの若者にとって、自分の車を持つことは、恐らく現代のスマホを手に入れる以上の喜びがあったものと回想する)
その当時から比較し、現代の車は、エンジン性能、居住性、操作性、安全性等、進化と言うより、とうに異次元の存在であるように感じるが、これ等進化の大きな要因として、コンピュータシステムの発達が大きく関わっており、その一端を担っている当社にとってもとても喜ばしいことでもある。
今後、更なる技術革新や通信環境の整備により、運転の必要の無い「完全自動化」はもう目の前にまで迫っている。
その一方で、昨今よくニュースで見聞きする高齢ドライバーの操作ミスによる交通事故。
いわゆる「ブレーキとアクセルの踏み間違え」が原因とされる死傷事故である。
(これ等も完全自動化になれば無くなる問題ではあるが・・・)
この対応策として、前後方の障害物をセンサーが検知し自動でブレーキをかけてくれる「運転支援システム」の導入が必要、との意見も多い。
様々な分野において、人的エラーを無くし(減らし)効率化を図るためにシステムが大きな成果をもたらしてきたことは言うまでも無いが、自動車の運転操作に関しては人が操作する以上、ましてや様々な機能に衰えが生じる高齢者の場合、いろいろな状況下で、特にヒューマンエラーが起きやすくなることには変わりはない。
現在、警察庁は高齢者に運転免許証の自主返納を呼び掛けているが、住まいの立地や生活環境、また車が無いと仕事ができない高齢者も多数いることであろう。
これ等の問題について、あくまでも持論であるが、デジログ的考察から、システムに頼るのでは無く、マニュアル車(以下、MT車)に回帰してはどうかと考えている。
改めて言うまでも無いが、MT車とオートマチック車(以下、AT車)の操作性の違いはペダルの数であり、MT車の運転には3つのペダルを操作する必要がある。
現在、自動車の主流は完全にAT車であるが(MT車を探すことの方が困難)、それは運転のし易さに他ならない。
たまに、ペダルに満足に足の届かない小学生が親の車を運転、等のとんでもない記事を目にするが、これもアクセルとブレーキしか無いAT車ならではのこと。
MT車においては、止まる場合はブレーキをかけ更にクラッチを切り(踏み)、走る時も車速に併せてクラッチ操作が必要であること。従って、アクセルとブレーキを踏み間違えたとしても、もう一つのクラッチが制動をコントロールしているため、自動車の暴走には至り難いと考える。
そこで私は、70歳(?)以上のドライバーは、AT車と比較して操作が難しいMT車のみ運転可とし、それが出来なくなればライセンス停止とすることを提案したい。
心身共に元気な高齢者には、MT車でどんどんドライブを楽しんでもらい、それが出来なくなれば必然的に運転を止める(免許証を返納する)ということはいかがであろうか。
それであれば、高齢者本人も納得できるのではないか。
また、運転することで認知機能の低下が抑制されるという記事を目にしたことがあるが、MT車で操作が複雑になることで身体的な機能を維持し、更には、様々な地をドライブすることの楽しみにより脳も活性化できる等、他者への安全面以外にもメリットは大きい。
「便利」で「楽」できることも技術革新の大きな意義ではあるが、個々の「人間」に関してアナログ的な観点も見過ごしてはならないという「デジログ的考察」である。
携帯電話にも疑いを持つ「自身の感」から、近い将来実現されるであろう「自動運転」に伴う情報インフラ「5G(第五世代移動通信システム)」について。
「第4次産業革命」とも捉えられる非常に大きな変革で、我々の生活も圧倒的に便利になるが、そのシステム的なロジックが理解できるだけに、目に見えない空中(無線環境)を膨大な情報が超高速で行き来している様を想像し、人々はそれを避けることも出来ず、常時、無意識に、それに晒され続ける生活環境は、人間にとって本当に安全なのであろうか。
一度走り出したら、なかなか後戻りは出来ない。
利便性のみを追求し過ぎて、もっと大切な何かを失わなければいいと心底願うばかりである。
※上記内容について、あくまでも持論であり科学的根拠は一切ありません。
日付2019/3/6