第58話 あっぱれ「糞土思想」
先日、友人との待ち合わせまでに30分程時間が空いたため、時間つぶしで書店に入った。
店内をぶらぶら歩き、旅行ガイドが並ぶコーナーの棚で、ある本が目に留まった。
タイトルは「葉っぱのぐそをはじめよう」。
思わず手に取って読んでみる。
著者は、「糞土師」の伊沢正名氏。
プロフィールには、
21世紀に入ってからの16年間でトイレでした排便はたったの9回、とある。
かなりの強者である。
内容は、私がかねてから抱いていた疑問を解き明かすヒントが満載で、まさに「目からウロコが落ちる」思いで、単なる時間つぶしのつもりがそれを購入していた。
(決して、小学生男子が喜ぶ「ネタ」的な内容ではありません)
私は、プライベートで地元の子供達にカヌーやヨットを教える活動をしている。
これは、「自分の住む地域の水環境に感心を持たせ、環境を守る気持ちを育むこと」も目的の一つとしており、実施に際して、活動水面に関して役所と折衝することもままあり、特に初めての活動だと担当課がわからず、しばしばいくつもの部署をたらい回しにされる。
活動候補地の一つ、近くを流れる善福寺川は、合流式排水を施したいわゆる都市型河川である。
ある程度の雨量になると、汚水を含む生活排水が川に流れ込む仕組みのため、豪雨後に水量が戻った川岸の雑草にはトイレットペーパーらしきものが絡みついている光景を目にすることもある。
そんな時には、区役所に近所の住人から「汚いからなんとかしろ」と言う苦情がくることも珍しくないらしい。
そんな事からか、私がたらい回しされるどこの課でも、「あの川は汚いから・・・」と言う言葉が頻繁に聞かれるが、
果たして、そうだろうか?
話しは変わり、ハワイで現地ヨットに宿泊した時のこと。
アメリカでは、ヨットやボートのトイレ設備として「ホールディングタンク」という糞尿を溜めるためのタンクの設置が義務付けられている。
従って、港では、水や燃料を補給すると同時に、溜まった糞尿を吸い上げる設備があるところも多い。
これは衛生上の理由からであるが、日本では義務付けられていない。
ヨットオーナーとの雑談でそのことが話題になり、
「なぜ日本はトイレの垂れ流しが許されているのか?」
との問いに、
「人間から排出された物は有機物だから、海の中で自然に返るじゃないか。直ぐに魚が食べて彼らの栄養分に変わっていくよ」
と持論を述べた。これに対して、彼女は
「でも自分が泳いでいるそばで、便が流れてきたら嫌でしょ?」
「海ではアッという間に浄化されてしまうから全く気にしないよ」
文化の違いか、価値観の違いか、しばし平行線の会話が続いた。
(直接関係は無いが、鮨を握るのにビニール手袋の着用を義務付けるお国柄、が頭をよぎった)
すなわち、糞尿は「汚いモノ」という考えに基づいた意見であるが、
果たしてそうであろうか?
ちなみに、日本では停泊するハーバーに依りトイレの使用が制限されている場合が多い。
もっとも、規制などされていなくても、停泊中のトイレは周囲の状況を判断して利用するのは、マナーとしては当然のことである。
排泄したばかりの糞便そのものは、人間にとっては不衛生なものであるため、疎まれ、 忌避され 、自分達の目に触れないように遠ざけられる。
しかし、自然界ではどうであろうか?
山であれ、海であれ、それを餌として好んで食べる動物や昆虫、バクテリア、菌は多数存在している。
彼らに掛かれば数週間で土(自然)に帰り、自然に有効活用される存在なのである。
自然が豊かであればあるほど、生物の基本的な生きる営みである排便などは、自然のサイクルのほんの一部として、有効かつ合理的に吸収されるものではないだろうか。
ある日、友人達と多摩川にハイキングに行き、昼食を食べるため草むらにピクニックシートを広げようとした時のこと。
そのウチの一人が
「チョット待って! あっちの土の上にしよう」と言い出した。
立地的には、木陰でふかふかの草の上の方が快適なはずであるが・・・?
「犬の散歩で、草むらでウンチをした時にうまく取れないことも多いので、草むらは避けたい」
のだそうだ。
「君も犬を飼っているのだからわかるだろ?」
「全く気にしないよ。臭いがしたり、ハエがとんでる場合は避けるけれど、カラカラに乾燥しているようなら土と一緒だよ。」
と応えた。
その友人からすると、東京の草むらは犬のトイレそのものに見えてるらしい。
当然、犬の散歩のマナーとしては、チャンときれいに取り除くことは言うまでも無いが。
さて、そんな何の根拠も無い私の個人的な持論を、実証をもって解説してくれたのが、冒頭の本「葉っぱのぐそをはじめよう」である。自然保護活動をしていた著者は、1974年から独自の方法で「ノグソ」を始め、途中2年半かけてその跡を掘り返し、ウンコの分解過程を調査したとのこと。その結果、夏場であれば約1カ月で分解が終わり、臭いもすっかり消えて栄養たっぷりの土に生まれ変わることを確認したそうだ。
また、この本で重要なポイントが「葉っぱ」である。
ある跡を掘り返した際、モノは跡形も無くなっていたのに、使用した紙だけが真っ白な姿で出てきたのだそうだ。
紙の原料は木であるので、土の中ですぐに分解するものと思っていたところ、恐らく製紙過程で様々な化学物質が染み込むためすぐには自然に返らなかったものと分析されている。
これによって、その後は紙を使用せずに「葉っぱ」で拭くことにしたのだそうである。
なるほど。
前述の善福寺川でのトイレットペーパー跡に関して、水に溶けてなくなる筈のトイレットペーパーが何故いつまでも雑草に絡んだままの姿を晒しているのか。また、たまにニュースで見かける富士山の山肌にへばり付く白いぺーパー類。これ等も自然の中でなかなか分解されないのであろう。
(富士登山では水溶性の紙しか使用できない、ハズ)
「菌類のウンコは植物のご馳走。植物のウンコは動物のご馳走。そして動植物の死骸とウンコは菌類のご馳走・・・。このようにして地球上の全ての生き物は、ほかの生き物のウンコを自分の食物として命をつないでいたのです。」
「人間も生態系の中の一員ですから、そこで生きてゆくには生きる糧を得るだけでなく、仲間であるほかの生き物を生かすことも必要・・・。」
※ノグソが救う地球の命 「葉っぱのぐそをはじめよう」より 抜粋
何と素晴らしい考えであろうか。
筆者は、人間の糞便は自然の一部という考えに納まらず、明確な目的を持って「ノグソ」をご自身のライフスタイルに取り入れ活かしているのである。
「自然から食料をいただいている人間にとって、糞便を有効な資源として自然にお返しする責任がある」とも述べており、これ等の「糞土思想」の普及のため、各地で公演も開いているとのこと。
補足をすると、この「糞土思想」は「ノグソ」自体を推奨するものでは無く、排泄したモノを土に埋めて自然に返すことが目的であるのだ。
今更言うまでも無く、私も、糞便が「汚く無い」とは思っていない。
ただ、それは自然のモノであり、ビニールやプラスチック、カン等より余程自然に優しいものではないか。それを、あまりに皆が「汚いモノ」として毛嫌いし、不要なゴミ扱いしすぎることに抵抗を感じていた次第である。
もっとも、それをあまり声高に叫べば単に「品の無いオヤジ」扱いされるがオチなので、大ぴらには話題にしてきていないが、この本と出会い、その奥深さ、意味深さに感銘を受けたものである。
公害が全国各地で問題になっていた昭和40年代頃、私が生まれ育った神田でも、光化学スモッグ等の大気汚染の他、直ぐそばを流れる日本橋川や東京湾の水質汚染が深刻な状態で、川沿いでは強烈な悪臭とどす黒く濁った水がよどみ、底からはメタンガスの泡がそこここで発生している光景をハッキリ覚えている。
まさに、この日本橋川の支流の一つである善福寺川も、当時の水質汚染の原因の一端であったものと推測するが、ここ何十年、そんな状態から、下水道を整備し様々な水質浄化対策を施し排水に関する規制も強化した結果、明らかに水質は改善されており、現在の、たまに糞便が流れる程度の川を「汚い川」とは思わない。
「葉っぱ・・・」にも書いてあったが、糞便を大量にため込むから、バクテリアががそれを分解処理する能力を超え汚染につながるのであって、そうでなければ、糞便は自然にとっても有効な資源であることに、改めて気づかされた次第である。
とは言っても、子供達を実際にその川に入れることを考慮すると、根拠のない私の持論等何の意味も無い。
そこで、実際に水質を調査することにし、川の水を採取し専門の調査機関に送り分析してもらった。
結果は、糞便性大腸菌群数は100mLあたり30個と環境省の「水浴場水質判定基準」のAランクを楽々クリア。
すなわち、環境省が「水浴場として適しています」と言えるレベルであった、ということであり、見た目(雑草に絡み風になびくトイレットペーパー)のイメージで「汚い」と判断している方々に堂々と説明することが出来る。
「葉っぱのぐそをはじめよう」の中では、「ノグソ」に対する様々な疑問や批判にも丁寧に回答されています。
前話と似通った内容になってしまいましたが、悪しからず・・・
「糞土思想」が地球を救う 葉っぱのぐそをはじめよう
著 者:伊沢正名
発行所:株式会社山と渓谷社
日付2018/03/06